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2007年10月 アーカイブ

2007年10月 6日

いさましいチビのトースター(The brave little toaster)

いさましいちびのトースター (ハヤカワ文庫SF)
トーマス・M. ディッシュ Thomas M. Disch 浅倉 久志
4150111677

いさましいちびのトースター火星へ行く (ハヤカワ文庫SF)
トーマス・M. ディッシュ Thomas M. Disch 浅倉 久志
4150112975

「いさましいチビのトースター」は正・続の2つが出ていて、いずれも文字も大きく、挿絵もふんだん。小学生からオススメの楽しい楽しいSF小説。作家のトマス・M・ディッシュ(この本ではトーマス)は、「アジアの岸辺」が国書刊行会から出ていて、それを読む前の予習のつもりで読了。いや、予習にはならないと思うけど、ずっと気になっていたからいい機会だし。

家電製品たちが、日ごろどんな風にすごしていて、どんな思いで人に奉仕してくれているかが描かれている。新製品に飛びつくのもいいけど、やっぱり愛着もって長く使っていきたいよね。そういえば、パソコンも新製品がほしいな~とか言うと、とたんに調子が悪くなる。褒めて使うのが大事。日本では昔から「万物に神宿る」って言うじゃない。

「火星に行く」のトースターたちの工夫っぷりはすばらしいの一言!よく行けましたね。楽しくも、ちょっとほろっときたりして。こういうお話、好きです。

ジョナサンと宇宙クジラ(Jonathan and the space whale and other stories)

ジョナサンと宇宙クジラ (ハヤカワ文庫SF)
ロバート・フランクリン ヤング Robert F. Young 伊藤 典夫
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伊藤典夫編・訳のヤング短編集。とにかくスィートという前評判だし、この新装版のカバーのスィートさときたら!読んでみると、スィートで、ほろ苦くて、ときどきシビア。刺すような痛みさえあって、切なさが全体に覆っている。

「リトル・ドッグ・ゴーン」はまるでロードムービーのよう。ラストで思わず涙した。そして「いかなる海の洞(ほこら)に」の壮大さはどうだろう。出足はどこにでもある、気まぐれな恋愛譚。それがどんどん様変わりしていき、ラストの荘厳さに息を呑む。

この短編を編んだ伊藤さんの訳者あとがきがほんとうにいい。どんな経緯でロバート・F・ヤングに出会って、それをどんなふうに訳して雑誌に持ち込んだか。目を皿のようにして海外作品を読み、深く作品と関わり、それを日本に紹介していった翻訳家たちの、瑞々しい当時の仕事振りがうかがえる。新装版になっても、1977年当時のあとがきを収録してくれたハヤカワ文庫に敬意を表したい。新規で追加された久美沙織さんの解説もよかった。結構、後付の解説で読後感が台無しになることがあるけれど、この本はそんなこともなかった。余韻に浸れた。読後感のすばらしくよい一冊。

河出書房の「奇想コレクション」から刊行予定のヤング短編集「たんぽぽ娘」が待ち遠しい。伊藤さーん、ホントにがんばってください! 遅筆だからとか言わないで。

バゴンボの嗅ぎタバコ入れ(Bagonbo snuff box)

バゴンボの嗅ぎタバコ入れ
カート・ヴォネガット 浅倉 久志 伊藤 典夫
4150116350

2000年に上製本として発売されていた、ヴォネガットの短編集がこのほどようやく文庫化された。書かれたのは1950~60年代で、半世紀も前のもの。ヴォネガットが短編を生活の糧として量産していた時期があり、その大半はスリック雑誌に掲載された。かつて、短編集「モンキー・ハウスへようこそ」が編まれたが、そこから漏れてしまった23篇がここに収録され、短編の大方が網羅されたことになる。めでたい。ただし、2007年10月の時点で、ハヤカワ文庫の「モンキー・ハウスへようこそ」は事実上の絶版状態になっているので、併せて読むのに本来最もふさわしいこの本は、簡単には手に入らない。古本もとんでもない値段に跳ね上がっている。全く持って皮肉な話。そういうものだ、というべきか。図書館で探すのをお勧めする。間違っても、法外な値段の古本に手を出さないでください。

話を「バゴンボ」に戻そう。ここに収録されているのは短編で、しかもアーリー・ヴォネガットと言うべき作品群。彼一流の文明批判や、どうしようもない人への「諦めと愛情いっぱいのまなざし」はすでに健在、さすがというべき。ただ、長編に見られるようなあの独特の味わいはほとんどないので注意が必要。短編としての出来は決して悪くない。この前に紹介したヤングの「宇宙クジラ」と比べたって遜色ないと思う。が、やはりヴォネガットは長編でユニークな存在になったと思う。圧倒的に。

もしもあなたが、先に出た「国のない男」を読み、ヴォネガットに興味を持って、この短編集を手にしたのであれば、おそらく頭の中は「?」でいっぱいになったと思う。前者は辛口政治評論家であり、後者はちょっと皮肉の効いた短編作家だ。この両者に、ヴォネガットの真の面白さは存在しない。この2冊を読んだなら、どうか「プレイヤー・ピアノ」へ駒を進めていただきたい。頭の中でこの3冊はおそらく1本につながると思う。

ということで、次は「プレイヤー・ピアノ」をご紹介する。

余談:
この短編集の上製本を持っており、文庫は特に入手する予定はなかった。ところがある日、書籍小包が手元に届いた。差出人は浅倉久志先生。「先日のワールドコンのお礼に差し上げます」と手紙が添えられており、恐縮すると同時にいたく感動し、ありがたく拝読させていただいた。新たに浅倉先生によって書かれた「文庫版に寄せて」が追加されており、そこには上製本が出た2000年以降、亡くなるまでのヴォネガットについて書かれていた。多くのヴォネガット本を手がけてこられた訳者としての感慨も、控えめながらに綴られていた。ヴォネガット最後の著書が浅倉先生・あるいは伊藤典夫さんによって翻訳されなかったことは、わたしは個人的に納得できなかった。しかし、この数ページを読んで、わたしのなかで締めくくることの出来なかったヴォネガットが、ようやく決着したし、これが浅倉先生からの回答なのだろうと受け取った。

ダス・エンデ。

プレイヤー・ピアノ(Player piano)

プレイヤー・ピアノ (ハヤカワ文庫SF)
ジュニア,カート ヴォネガット Kurt,Jr. Vonnegut 浅倉 久志
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ヴォネガット初の長編小説。1952年。この前にご紹介した「バゴンボ」と時期的には同じ。470ページもあり、かなり長いが、やはりヴォネガットは長編がいい。最初の長編ということもあり、いつものノリとはちょっと違う。まず、なんと言っても時系列順に物語が進んでいる。これはヴォネガット的に珍しい。それから、トラルファマドール星人もキルゴア・トラウトもいない。あんまりイカレた人は出てこない。しかしながら、「イリアム」という地名が登場する。この先何度も出てくるこの地名、わたしは実在の都市だとばかり思っていたら、架空なんだそうな。うーん、やられた。

そんなオーソドックスな手法で書かれたこの作品だが、中盤くらいからだんだん箍が外れてくるの感じた。序盤は、短編集にあるSFっぽいノリなのだが、主人公のポールが郊外に家を買うあたりから、なんというかいつものヴォネガットだなぁと思った。途中途中でさしはさまれる「ブラトブールの国王(シャー)」のエピソードは、その後の作品に(形を変えてではあるけれど)引き継がれているように感じる。

わたしが感じる「ヴォネガットらしさ」とは、運命に逆らえずにどんどん流されていく視点にあると思う。その変化を見つめる視点はいたって冷静で、どう抗ったところで引き戻されるものでもない。その状況がそんなに「しっちゃかめっちゃか」なものであっても。

ヴォネガット文学の面白さは、彼が誘ってくれるその「しっちゃかめっちゃか」に乗ることにあると思う。確かに皮肉もあるし、教訓もあろう。政治批判、文明批判、大いに結構。ニヒリストとしてのヴォネガットは超一流。しかし、そのニヒリズムは「しっちゃかめっちゃか」があってこそ映える。彼は批判の対象について、是正を求めるような聖人ではない。求められた是正が実行されたところで、絶対もとの鞘に納まることはない。きれいに解決するわけはない。そこまで描いてくれるから、わたしはヴォネガットを信じるし、「あーでももうしょうがないじゃん」という人や事項があっちこっちに存在することは、認めなくちゃいけないんだ。

新しい読者の皆さん。どうかヴォネガットを政治評論家に見立てないでください。彼は単なる正義の人なんかじゃない。とっても面白い小説を書くおじさんです。もし、「プレイヤー・ピアノ」が面白かったら、「猫のゆりかご」や「タイタンの妖女」、「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」も面白いと思います。

百間先生、月を踏む

百間先生 月を踏む
久世 光彦
4022501863

久世光彦の絶筆となった最後の作品。久世といえば乱歩と思っていたのだけれど、百鬼園もお好きだったんだなぁー。いや、あまり久世光彦のことは知らないのだけど。

この作品は、まったくのフィクションで、百間先生が小田原に滞在している様子を描いているもので、久世が創造する架空の百間先生の新作が何篇か挿入されている。これって乱歩でも摂られている手法だと思う。そうかー、久世光彦には百間先生はこう見えているのか、と興味深かった。けれど、わたしが思い描く百間先生とは違うなぁ、というのが率直な感想。

ラストを描く前に亡くなってしまったので、この先小説内の百間先生がどういう行動をとったのか、めちゃくちゃ気になる。久世光彦の心情をよく解している作家の方に完結編を書いていただきたい。本気でそう思う。絶筆は悶々とします。

貼雑年譜

貼雑年譜 (江戸川乱歩推理文庫)
江戸川 乱歩
4061952668

「貼雑年譜」と書いて「はりまぜねんぷ」と読む。「探偵小説四十年」でしきりに引用されていたものだ。乱歩が残したスクラップブックを抜粋・スキャンして1冊にまとめたもの。なかなか大判の本で、当時の新聞の切抜きなどもリアルに再現されていて面白い。乱歩は自分のことが本当に大好きだったんだなぁと思った。新青年の新聞広告はとても面白い。「横溝君の文」とか鉛筆で注釈があったり、楽しい。個人的には夢野久作のファンなので、彼の小説が結構ひんぱんに掲載されている見出しを見るのは嬉しい。

乱歩自身はいろんな思いで貼雑帳を作ったと思うが、無責任な読者のわたしは、その当時の空気を感じ取る、ちいさなタイムカプセルのように楽しませていただいている。いい本だと思う。とても。強いて欲を言えば、カラーで再現してほしかった。

2007年10月 8日

猫のゆりかご(Cat's cradle)

猫のゆりかご
カート・ヴォネガット・ジュニア 伊藤 典夫
4150103534

「私的ヴォネガット再読シリーズ」も、とうとうこの作品にたどり着いた。いわずと知れた代表作のひとつ。伊藤典夫さんによる名訳がぶいぶい冴えている。この話は浅倉さんではなく、伊藤さんで正解だったと思う。乾いたタッチ、クレイジーすぎる登場人物たち。猫、いますか。ゆりかご、ありますか。

「フォーマを生きる寄る辺としなさい」...この本そのものがフォーマの塊だ。真実を見つめるのはあまりにもつら過ぎる現実。だから、無害な非真実=フォーマを見つめよう、とボコノンの書は解いている。それにしてもヴォネガットさん、どえらい宗教を作ったもんだ。無神論者・ヴォネガットの面目躍如。このタッチは、後の「チャンピオンたちの朝食」に引き継がれているように思う。好みは分かれるだろう。ナイス・ナイス・ヴェリ・ナイス。

余談:フランシーン・ペフコがこの本から登場していたのを改めて発見した。ハイホー。

2007年10月15日

高い城の男(The man in the high catsle)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)
フィリップ K.ディック 浅倉 久志
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高い城の男

ディック1962年の作品。

第2次世界大戦、ドイツ(ナチ)と日本が勝利を収め、アメリカを両国で二分している設定のお話。西海岸を日本が、東側をドイツが有している。それにしても、海外作家の小説で、これだけ漢字表記を用いられた日本人キャラクターが出てくるものは読んだことがない。日本人が、「古きよきアメリカ」に憧れを抱いていることなど、ディックはよく知ってるなぁと感心した。主人公の一人、田上の描写はそれにしても崇高だ。いや、日本人全体の描写が、崇高に寄り過ぎていないだろうか。そもそも、日本人はそんなに瞑想をしないだろう。まぁいいか。そう言う設定だ。日本軍も健在で、天皇は神だ。もしかしたら現実の日本人とは違った性質を持っている可能性はある。

この物語は、主人公が数人いて、平行してそれぞれのキャラクターの行動が描かれる。そして、お互いは直接的に、あるいは間接的にどこかで関係を保っており、だんだん糸がより合わさっていく。登場人物が多いせいか、感情移入できるキャラがなかなか出来なかったのだが、やはり最後まできて田上の存在は忘れがたいと思った。

11章以降は、それまで比較的淡々と綴られてきた物語の緊張の度合いが高まり、正直、恐怖を感じた。恐ろしいと思った。ラストで、田上が平和でおだやかな公園に腰を下ろして眺めているシーンがあるが、高官たちの間で取り交わされている巨大な動きとの対比が恐ろしい。それにしても、易経がここまで人々の心を支配している世界って、なんだか新興宗教のようではないか。先に、感情移入しがたいと書いたが、このことと関係が深い気はする。

2007年10月23日

デッドアイ・ディック (Deadeye Dick)

デッドアイ・ディック (ハヤカワ文庫SF)
カート ヴォネガット Kurt Vonnegut 浅倉 久志
4150112193

すんません。またヴォネガットです。今年の春にヴォネガットが亡くなってから、折々に読み返しているのだけれど、まとめて読むと非常におもしろい。

「デッドアイ・ディック」の主役はルディ・ウォールツではない。銃であり、ドラッグであり、中性子爆弾であり、人々の偏見だ。これらがたくみに物語の中で影響を及ぼしてくる。その主役たちの 周りで、へんてこなダンスを踊らされているのがルディであり、ルディの父であり、母であり、兄であり、ドウェイン・フーヴァーとその妻だ。途中途中にさし挟まれるレシピ、これがまたいい。そして、人生は演劇だ、ときどき台本までもが登場する。

「デッドアイ・ディック」は「ジェイルバード」のあと、1982年に書かれた小説で、名前から「ジュニア」が取れた『近年の作品』の範疇に入るのではないかと思うが、「デッドアイ・ディック」のヴォネガットはとにかく調子がいい。油が乗っている。職人芸だ。上手い。翻訳もすこぶる調子がいい。コトバが血肉になっている印象すらある。あとがきを読めば、どのくらい調子がいいかがさらに伺える。いいタイミングで訳されたと思う。

どの世界にも原理主義者って言うひとたちがいて、Genesisならピーガブが脱退する前までしか認めないとか、そんな類の主義なんだけど、ヴォネガットもご多分に漏れず、「猫のゆりかご」や「タイタンの妖女」の評価がめっぽう高い。しかし、わたしは職人の熟練した腕で生み出された作品がものすごく好きだ。わたしにとっての最初のヴォネガットは「スローターハウス5」で、何度も読んだ本だし、おそらく一番好きな本は?と問われれば、これを指すだろう。けれど、ほんとうにそうだろうか、とふと思う。ヴォネガットのよさは、熟練の妙味だ。これがなければ、すべてのヴォネガットを読み続けることなんてなかった。その妙味のある作品といえば、70年代後期~80年代に生まれた作品群にあたるのではなかろうか。

それにしても、「チャンピオンたちの朝食」は、もしかしたら「猫のゆりかご」以上にヴォネガットにとって重要な1冊なのではないかと思った。「チャンピオン」と「青ひげ」、「デッドアイ・ディック」は三兄弟のような作品だ。こんな本が読めて嬉しい。当時のわたしはどこを読んで何を考えていたのだろう。もっと読まれていい一冊だと改めて思う。

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