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K.ヴォネガット アーカイブ

2007年4月12日

スローターハウス5(Slaughterhouse5)

Kurt Vonnegut

ホントは「樽」つながりで「蝶々殺人事件」を、と思っていたのですが
思いがけない知らせが飛び込んできました。
ヴォネガットが、84歳の生涯を閉じたという、悲しい知らせが…。
数週間前に脳挫傷を起こしたようです。(転んで頭を打ったらしい…)
そこで、急遽ヴォネガットに変更します。

わたしが初めてヴォネガットに出会ったのは「スローターハウス5」でした。
ZELDAのアルバムに「スローターハウス」という曲があり、
その静かなクレイジーさに心惹かれました。18歳のときでした。

「ヴォネガット」という、聞いたことのない外国人作家の小説は、
SFを沢山出しているハヤカワが版元でした。
SFに免疫のなかったわたしは、ちょっと躊躇しました。
が、カバー絵の和田誠さんのからりとしたタッチとZELDAが後押しとなって
購入に踏み切りました。当時、360円くらいだったような気がします。

そこに展開されていたのは、読んだことのないような物語でした。

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2007年4月15日

チャンピオンたちの朝食(Breakfast of Champions)

goodbye blue monday!

→「スローターハウス5」の後に書かれた1973年の作品である。
この作品には、魅力的なヴォネガットの自筆イラストが多数収められている。
そして、段落の前には「→」がつけられている。

→「人生は危険だよ、それは知ってる。それに、苦しみもいっぱいある。
だからといって、まじめなもんだとは限らんよ」
など等、キルゴア・トラウトの名言が多数収められている。
トラウトの短編小説のあらすじも、たんと収められている。
召し上がれ!

→化学物質のせいで狂っているのは、ドウェイン・フーヴァーに限ったことではない。

→感想の書きにくい作品である。わたしの知る限りでは。
「スローターハウス5」とはもともとひとつだった、という解説には納得がいく。
そういう話だ。その他いろいろ。

→解説の浅倉久志さんが粋である。彼は素晴らしい翻訳者だと思う。
1930年生まれの彼は、今年でもう77。はてなには「相当の高齢」と書いてあった。
言いえて妙である。
ただ、ヴォネガットの最後のエッセイ「A man without a country」が
浅倉さんでないことが、本音を言うと寂しい。
ラストまで浅倉節で行って欲しかった。
今、翻訳している人には申し訳ないが、許して欲しい。
それが読者のわがままというものだ。


...「チャンピオンたちの朝食」風(?)にまとめてみました。
ちなみに、現時点で、ハヤカワは絶版扱いのようです。
なんということ! 翻訳権を独占しながら!
しかも、ブルース・ウィリスによって映画にもなった作品だというのに!
(映画について語る気力は持ち合わせてないです。原作とは別物として楽しまれたし)

そんな事情なので、古本で求めるしかありません。
が、その価格がかなり流動的なので、リンクをふたつ紹介しておきます。
これから欲しいなと思う方は、適切と思われる価格のものをお求めください。
1,000円くらいで収まりますように。
(追記:2007年秋に文庫版復刊されました)

チャンピオンたちの朝食
チャンピオンたちの朝食 (1984年)
カート・ヴォネガット・ジュニア:著 / 浅倉 久志:訳
B000J75XLU
※ハードカバーのリンク。ユーズドには文庫と思われるものも入ってくるようです。

チャンピオンたちの朝食
カート・ヴォネガット・ジュニア:著 / 浅倉 久志 :訳
415010851X
※こちらは文庫のリンクです。
追記:2007年秋に復刊されました。めでたい!

Breakfast of Champions
Kurt Vonnegut
0385334206
これは原著。日本語版と見比べるとすごく楽しい。イラストの扱いがいいですよ。

2007年4月22日

青ひげ(Bluebeard)

bluebeard

「こうした偶然の一致をいちいち真剣にとっていたら、
だれでも気が狂ってしまう。この宇宙には、
自分にかいもく理解のできないことがわんさと進行中らしい、
と疑いを抱くようになる」(本文より)

1987年のヴォネガットの長編です。

戦争体験をベースに、しっちゃかめっちゃかになった
人生の回顧録である点においては、いつものヴォネガット。
「青ひげ」にはラストにオチが用意されているので、
いつもよりもちょっとわかりやすいヴォネガットかなと思います。

わたしがヴォネガットを好きな理由は、
奇跡的な出来事が、それが幸運であれ、その真逆であれ
いつ起きても、「ひとつの事実」として受け止める姿勢が
貫かれているからです。
登場人物がどんなに自分勝手でも自己中心的でも、
どんなにはた迷惑な存在でも、「存在」として尊重しているところかな。

「青ひげ」を再読して思いました。

青ひげ
カート ヴォネガット Kart Vonnegut 浅倉 久志
4150112053

2007年7月24日

ガラパゴスの箱舟(Galapagos)

ヴォネガット1985年の作品、浅倉久志:訳です。
昔、読んだはずなのですが、内容を忘れていたので再読しました。

1980年代当時のヴォネガットが、いかに人類に
絶望していたかがわかります。
どうしたってなくならない大量殺戮兵器。
どうしたってなくならない戦争。
どうしたってなくならない貧困や格差。
それらすべては巨大脳のせいだ、これは自然淘汰なんだ。
そう結論付けて笑い飛ばすしかない。
だってそれ以外に思いつく理由がどう考えたって見つからないもの。
広島や長崎も、ベトナムも、すべては百万年後の
新人類への進化のための布石だったのだと思うしかない。
そうにちがいない。(ヒロシマは「にこ毛」のための布石なのだ!)
……痛烈です。

しかし、ユーモアもたっぷりあります。そこがいいところ。

ヴォネガットの読者であれば、この百万年の年月を俯瞰して
語った人物が誰なのかは、おそらく読んでいるうちに
察しがついたことでしょう。私自身も察しがつきました。
ラストで、スウェーデン人医師に尋ねられたことで
号泣してしまうくだりにほろっときてしまいました。
本編にはあまり関係ないけれど。

それから、これまた本編には関係がないけれど、
キルゴア・トラウトはいつ死んだことになっているのだろう?
その他いろいろ。

わたしが読んだのは、ハードカバー版ですが、
95年に文庫化された際に、訳文に手を入れているそうです。
「カンガルーに出会ったころ」の『ガラパゴスの箱舟』に
その旨が書いてありました。
もしかしたらちょっと雰囲気が違うのかなぁ。
どうちがうのだろうか。
やっぱ文庫版も読まなきゃいけないかしら。

現在、正規で入手可能な数少ないヴォネガットの著書のひとつです。
読んだあとに、じわりじわりときます。
これこそ、まさにヴォネガットだなぁ…と再認識しました。
人類必読の一冊なのではないかと、あれから20年がたった今、
改めて思います。

ガラパゴスの箱舟
カート ヴォネガット:著/浅倉 久志:訳
galapagos.jpg

2007年7月26日

国のない男(a Man without a country )

ヴォネガット2005年の遺作です。満を持して邦訳版が出ました。

早速、書店にて買い求め(Amazonの到着が待てますか?)
新宿からの帰りの電車でずっと読み、帰宅してからも読んで
さきほど読了しました。

基本的には、あちこちでヴォネガットが発言している
言葉が何箇所も収録してあり、ときには
過去に出したエッセイと同じことまで書いてありました。

言いたいことは言い尽くした感がありますが、
これまでのエッセイと色が違うとしたら、
アメリカが世界中から嫌われてしまったことを
とてもこの老作家が悲しんでいることでしょうか。

タイトルの「国のない男」とは、途方もない反語といえるでしょう。

こてんぱんなまでに叩きのめされるアメリカ。
ヴォネガットの痛烈な政治批判は、
もうどうしようもなく祖国を愛しているのだなと
感じずにはいられません。

そして激しく論破したあと、肩で息をしながらも見せた
アメリカ人や人類への深い愛を12章で感じ取りました。
キルゴア・トラウトもちょっぴり出演してます。
これはウレシイ。

---

この本は、いつもの「早川書房:刊、浅倉久志:訳、和田誠:カバー」
ではなく、NHK出版から出ており、翻訳は金原パパです。
正直なところ、浅倉節で読むヴォネガットになじみすぎているせいもあり
手に取るまですごーく不安でした。
(帯にはまた太田光だし。もうね、ちょっとね…)
読んでみると、ちょっと硬質なヴォネガットという感じでした。
ところどころに気になる表現はありましたけど、
一気に最後まで楽しく読めました。よかったです。

…が、やはりいつかは浅倉訳で読みたいなぁとも思いました。
タイトルも、もしかしたら少し違ったつけ方になったんじゃないかなぁ。

過去に、池澤夏樹訳の「母なる夜」を読んでから、
飛田茂雄訳の「母なる夜」も読んでみましたが、
そのとき、前者では上品過ぎる!と思ったものです。
今回感じた「硬さ」は、池澤訳に近いかもしれないです。
そもそも、従来のヴォネガット文体が継承されていないのが
違和感なのかもしれない。
それから、他の作品にも出てくる登場人物の表記は揃えてほしいし、
ヴォネガットがいいそうもない言葉遣いは
やっぱり避けてほしかった…。
なんだか最後にケチがついた印象が否めません。至極残念。

国のない男
カート・ヴォネガット 金原 瑞人
国のない男

2007年7月30日

死よりも悪い運命(Fates worse than death)

死よりも悪い運命

1991年のヴォネガットのエッセイ。

エッセイのヴォネガットは、何度も同じことを言っている。「スローターハウス5」「青ひげ」「チャンピオンたちの朝食」そして「猫のゆりかご」。この4冊に書いてあることを言葉を変えて繰り返している。それがヴォネガットのエッセイだと思っていい。しかも、かなりヘビー。かなり飛ばしてる。

第2次世界大戦はヴォネガットの価値観を、良くも悪くも決定付けてしまった存在だった。「広島に落とされた原爆には、少なくとも軍事的意義があった」とあるくだりに、浅倉久志氏は「違和感を感じないわけにはいかない」と訳者あとがきに記しており、実を言うと、それがネックになってこの本がわたしはかなり長いこと読めなかった。

アメリカ人の価値観と日本人の価値観なんて決定的に違うんだ。わたしは少なくとも、アメリカから原爆を落とされたことについて「残虐きわまる行為であり、こんなことは二度と繰り返してはならない」と教育をうけてきたし、今もそう思っている。そこに損得勘定を差し挟む言及があることが、耐え切れなかった。

別の章で、ヴォネガットはかつて内戦中のナイジェリアの取材から帰国したときに「気が付くと犬の吠えるような声で泣いた」のに、今回、モザンビークの取材(ナイジェリアに劣らずひどい有様!)から帰国したとき、感情が動かなかったことを告白している。スローターハウス5でも、感情がどんどん麻痺してゆくビリー・ピルグリムを主人公にすえているが、人は麻痺することで自衛する。

ヒロシマに話を戻すが、訳者あとがきにあるようなバイアスがかかっている以上に、もっと別のわけがあるように思う。友軍によるドレスデン空爆。あれだけひどい状況下に置かれていながら、その残虐行為になんら意義がなかったということに失望感を抱いたのではなかろうか。せめて意義を見出してくれ!

漫画「夕凪の街・桜の国」(こうの史代:作)に、「わたし」は誰かに死んでしまえばいいと思われた存在だった、というくだりがあったが、立場は違うけど根本的にそれに近い感情だったのではないだろうか。

10章のラストにあった2行...「だれの上にも絶対に爆弾を落とすべきじゃないと思います」「それ以上にはっきりしたことはありません」これに尽きるのではないだろうか、と改めて思った。

追伸;
来世への青いトンネルの向こう側にいるヴォネガットさんへ。

ヴォネガットさん、あなたは、第二次世界大戦中、あなたの所属する祖国の軍隊が、夜な夜な日本の都市という都市に連日、爆弾の雨あられを降らせて滅亡させようとしたことはご存知だったでしょうか? 二発の原子力爆弾のことは別にして。


追記:ヴォネガットの著書をまとめて読み返して思ったのは、ヴォネガット自身にその認識はあったと思われる。どのタイミングで自覚したのかはわからないけれど。(2008年1月追記)

追記2:2008年9月、文庫化されました。

死よりも悪い運命
カート・ヴォネガット 浅倉 久志・訳
4150116822

2007年10月 6日

バゴンボの嗅ぎタバコ入れ(Bagonbo snuff box)

バゴンボの嗅ぎタバコ入れ
カート・ヴォネガット 浅倉 久志 伊藤 典夫
4150116350

2000年に上製本として発売されていた、ヴォネガットの短編集がこのほどようやく文庫化された。書かれたのは1950~60年代で、半世紀も前のもの。ヴォネガットが短編を生活の糧として量産していた時期があり、その大半はスリック雑誌に掲載された。かつて、短編集「モンキー・ハウスへようこそ」が編まれたが、そこから漏れてしまった23篇がここに収録され、短編の大方が網羅されたことになる。めでたい。ただし、2007年10月の時点で、ハヤカワ文庫の「モンキー・ハウスへようこそ」は事実上の絶版状態になっているので、併せて読むのに本来最もふさわしいこの本は、簡単には手に入らない。古本もとんでもない値段に跳ね上がっている。全く持って皮肉な話。そういうものだ、というべきか。図書館で探すのをお勧めする。間違っても、法外な値段の古本に手を出さないでください。

話を「バゴンボ」に戻そう。ここに収録されているのは短編で、しかもアーリー・ヴォネガットと言うべき作品群。彼一流の文明批判や、どうしようもない人への「諦めと愛情いっぱいのまなざし」はすでに健在、さすがというべき。ただ、長編に見られるようなあの独特の味わいはほとんどないので注意が必要。短編としての出来は決して悪くない。この前に紹介したヤングの「宇宙クジラ」と比べたって遜色ないと思う。が、やはりヴォネガットは長編でユニークな存在になったと思う。圧倒的に。

もしもあなたが、先に出た「国のない男」を読み、ヴォネガットに興味を持って、この短編集を手にしたのであれば、おそらく頭の中は「?」でいっぱいになったと思う。前者は辛口政治評論家であり、後者はちょっと皮肉の効いた短編作家だ。この両者に、ヴォネガットの真の面白さは存在しない。この2冊を読んだなら、どうか「プレイヤー・ピアノ」へ駒を進めていただきたい。頭の中でこの3冊はおそらく1本につながると思う。

ということで、次は「プレイヤー・ピアノ」をご紹介する。

余談:
この短編集の上製本を持っており、文庫は特に入手する予定はなかった。ところがある日、書籍小包が手元に届いた。差出人は浅倉久志先生。「先日のワールドコンのお礼に差し上げます」と手紙が添えられており、恐縮すると同時にいたく感動し、ありがたく拝読させていただいた。新たに浅倉先生によって書かれた「文庫版に寄せて」が追加されており、そこには上製本が出た2000年以降、亡くなるまでのヴォネガットについて書かれていた。多くのヴォネガット本を手がけてこられた訳者としての感慨も、控えめながらに綴られていた。ヴォネガット最後の著書が浅倉先生・あるいは伊藤典夫さんによって翻訳されなかったことは、わたしは個人的に納得できなかった。しかし、この数ページを読んで、わたしのなかで締めくくることの出来なかったヴォネガットが、ようやく決着したし、これが浅倉先生からの回答なのだろうと受け取った。

ダス・エンデ。

プレイヤー・ピアノ(Player piano)

プレイヤー・ピアノ (ハヤカワ文庫SF)
ジュニア,カート ヴォネガット Kurt,Jr. Vonnegut 浅倉 久志
415011501X

ヴォネガット初の長編小説。1952年。この前にご紹介した「バゴンボ」と時期的には同じ。470ページもあり、かなり長いが、やはりヴォネガットは長編がいい。最初の長編ということもあり、いつものノリとはちょっと違う。まず、なんと言っても時系列順に物語が進んでいる。これはヴォネガット的に珍しい。それから、トラルファマドール星人もキルゴア・トラウトもいない。あんまりイカレた人は出てこない。しかしながら、「イリアム」という地名が登場する。この先何度も出てくるこの地名、わたしは実在の都市だとばかり思っていたら、架空なんだそうな。うーん、やられた。

そんなオーソドックスな手法で書かれたこの作品だが、中盤くらいからだんだん箍が外れてくるの感じた。序盤は、短編集にあるSFっぽいノリなのだが、主人公のポールが郊外に家を買うあたりから、なんというかいつものヴォネガットだなぁと思った。途中途中でさしはさまれる「ブラトブールの国王(シャー)」のエピソードは、その後の作品に(形を変えてではあるけれど)引き継がれているように感じる。

わたしが感じる「ヴォネガットらしさ」とは、運命に逆らえずにどんどん流されていく視点にあると思う。その変化を見つめる視点はいたって冷静で、どう抗ったところで引き戻されるものでもない。その状況がそんなに「しっちゃかめっちゃか」なものであっても。

ヴォネガット文学の面白さは、彼が誘ってくれるその「しっちゃかめっちゃか」に乗ることにあると思う。確かに皮肉もあるし、教訓もあろう。政治批判、文明批判、大いに結構。ニヒリストとしてのヴォネガットは超一流。しかし、そのニヒリズムは「しっちゃかめっちゃか」があってこそ映える。彼は批判の対象について、是正を求めるような聖人ではない。求められた是正が実行されたところで、絶対もとの鞘に納まることはない。きれいに解決するわけはない。そこまで描いてくれるから、わたしはヴォネガットを信じるし、「あーでももうしょうがないじゃん」という人や事項があっちこっちに存在することは、認めなくちゃいけないんだ。

新しい読者の皆さん。どうかヴォネガットを政治評論家に見立てないでください。彼は単なる正義の人なんかじゃない。とっても面白い小説を書くおじさんです。もし、「プレイヤー・ピアノ」が面白かったら、「猫のゆりかご」や「タイタンの妖女」、「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」も面白いと思います。

2007年10月 8日

猫のゆりかご(Cat's cradle)

猫のゆりかご
カート・ヴォネガット・ジュニア 伊藤 典夫
4150103534

「私的ヴォネガット再読シリーズ」も、とうとうこの作品にたどり着いた。いわずと知れた代表作のひとつ。伊藤典夫さんによる名訳がぶいぶい冴えている。この話は浅倉さんではなく、伊藤さんで正解だったと思う。乾いたタッチ、クレイジーすぎる登場人物たち。猫、いますか。ゆりかご、ありますか。

「フォーマを生きる寄る辺としなさい」...この本そのものがフォーマの塊だ。真実を見つめるのはあまりにもつら過ぎる現実。だから、無害な非真実=フォーマを見つめよう、とボコノンの書は解いている。それにしてもヴォネガットさん、どえらい宗教を作ったもんだ。無神論者・ヴォネガットの面目躍如。このタッチは、後の「チャンピオンたちの朝食」に引き継がれているように思う。好みは分かれるだろう。ナイス・ナイス・ヴェリ・ナイス。

余談:フランシーン・ペフコがこの本から登場していたのを改めて発見した。ハイホー。

2007年10月23日

デッドアイ・ディック (Deadeye Dick)

デッドアイ・ディック (ハヤカワ文庫SF)
カート ヴォネガット Kurt Vonnegut 浅倉 久志
4150112193

すんません。またヴォネガットです。今年の春にヴォネガットが亡くなってから、折々に読み返しているのだけれど、まとめて読むと非常におもしろい。

「デッドアイ・ディック」の主役はルディ・ウォールツではない。銃であり、ドラッグであり、中性子爆弾であり、人々の偏見だ。これらがたくみに物語の中で影響を及ぼしてくる。その主役たちの 周りで、へんてこなダンスを踊らされているのがルディであり、ルディの父であり、母であり、兄であり、ドウェイン・フーヴァーとその妻だ。途中途中にさし挟まれるレシピ、これがまたいい。そして、人生は演劇だ、ときどき台本までもが登場する。

「デッドアイ・ディック」は「ジェイルバード」のあと、1982年に書かれた小説で、名前から「ジュニア」が取れた『近年の作品』の範疇に入るのではないかと思うが、「デッドアイ・ディック」のヴォネガットはとにかく調子がいい。油が乗っている。職人芸だ。上手い。翻訳もすこぶる調子がいい。コトバが血肉になっている印象すらある。あとがきを読めば、どのくらい調子がいいかがさらに伺える。いいタイミングで訳されたと思う。

どの世界にも原理主義者って言うひとたちがいて、Genesisならピーガブが脱退する前までしか認めないとか、そんな類の主義なんだけど、ヴォネガットもご多分に漏れず、「猫のゆりかご」や「タイタンの妖女」の評価がめっぽう高い。しかし、わたしは職人の熟練した腕で生み出された作品がものすごく好きだ。わたしにとっての最初のヴォネガットは「スローターハウス5」で、何度も読んだ本だし、おそらく一番好きな本は?と問われれば、これを指すだろう。けれど、ほんとうにそうだろうか、とふと思う。ヴォネガットのよさは、熟練の妙味だ。これがなければ、すべてのヴォネガットを読み続けることなんてなかった。その妙味のある作品といえば、70年代後期~80年代に生まれた作品群にあたるのではなかろうか。

それにしても、「チャンピオンたちの朝食」は、もしかしたら「猫のゆりかご」以上にヴォネガットにとって重要な1冊なのではないかと思った。「チャンピオン」と「青ひげ」、「デッドアイ・ディック」は三兄弟のような作品だ。こんな本が読めて嬉しい。当時のわたしはどこを読んで何を考えていたのだろう。もっと読まれていい一冊だと改めて思う。

2007年12月 3日

スローターハウス5(Slaughterhouse5)

さようなら、ヴォネガット

また読んでしまった。読みかけの本もあるし、読んでない本だって山のようにあるのに。(ということで、このブログでもレビュー2回目です)

この本は、生涯で最も繰り返し読んだ一冊だ。10代のときに購入した文庫は、卒業制作のモチーフにしたため、赤がいっぱい書き込まれている上、相当ボロボロになった。今年の4月のヴォネガット逝去の際、書店に平積みができ、「さよならヴォネガット」のPOPが、ゆらゆらゆれている棚があった。そこからわたしは一冊取り、購入した。二冊目だ。値段は当時のほぼ倍になっており、物価の推移が伺える。新版も、結局付箋だらけになってしまった。いい言葉がたくさんあった。

けれど、ヴォネガットのよさは、コトバひとつだけを取り出して眺めるものではないなぁとも思った。前後のモチーフがあってこそ輝きを放つエピソードも相当ある。もちろん、一部を引用したとしても、それはとても美しかったり、切なかったりするし、十分すぎる魅力に富んでいる。しかし、それを上回る魅力は、本一冊を通じて貫く芯にあると思う。あたりまえですが。

それにしても。改めて、伊藤典夫さんの訳文は無駄がない上、美しいと思った。ヴォネガットは、どうしてこんな本が書けたのだろう。多くの人が、この「調子っぱずれな」本のことを受け入れた事実にも祝福したい。

トラルファマドール星人の言うところの「なぜわれわれが? なぜあらゆるものが? そのわけは、この瞬間がたんにあるからだ」。過去も現在も未来も、常にそこにある。この本が、単純な反戦小説の枠に収まりきらないのは、このトラルファマドール星人の言葉に理由があるように感じた。


スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)
カート・ヴォネガット・ジュニア 伊藤 典夫
415010302X

2007年12月19日

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを(God bless you, Mr.Rosewater)

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)
カート・ヴォネガット・ジュニア 浅倉 久志
4150104646

ヴォネガット読み返しキャンペーン・ローズウォーターさんの巻。

ヴォネガット後期で繰り出される「乾いた笑い」と、前期で用いられる、ラストにオチを持ってきて問題の昇華を図る手法が交差した秀作だと思った。ヴォネガットは「スローターハウス5」と「チャンピオンたちの朝食」で転換期を迎えたんだなぁと改めて思う。

エリオットの狂気はなかなかすごいものがある。こんな夫に振り回されたら、そりゃ嫁はうつ病が発症するわ、と思った。が、やはり特筆すべきは、父親との対決シーンだろう。このくだりは、ものすごい迫力がある。オチについては、ニヤリと笑う感じ。ヴォネガットらしいといえばらしいけど、らしくないといえばらしくないかな。思想としてはヴォネガットらしいのだけど、手法がらしくない、という感じ。キレイすぎるかな。ヴォネガットの短編っぽいオチ。

クレイジーなヴォネガットに慣れるにはもってこいの入門書だとおもった。

ジェイルバード(Jailbird)

ジェイルバード (ハヤカワ文庫 SF (630))
カート・ヴォネガット

Amazonの画像がないな。先ごろ、復刊した「ジェイルバード」。読み返しキャンペーン中。

後期ヴォネガットの代表作のひとつといっていい。ヴォネガットらしさに満ちて、構成もうまい。前に紹介した「ローズウォーターさん」同様に、ここでのテーマは「金」。ヴォネガットは、金や富をファンタジーとして扱う。金持ちは、金を用いて富を分配することで世の中をよくしたり、人々を救うことができると真剣に考えている。違うのは、エリオット・ローズウォーターは幸せだったが、「ジェイルバード」のメアリー・キャスリーンはそうとは言い切れなかった、といった差だけ。彼らは資本主義社会のファンタジーであり、魔法使いなんだな。

「ジェイルバード」では、本人の意向や思惑を大きくそれて、誤解の上に待ち受ける、思いがけない展開に流されてしまう人々の物語とも取れる。人生は、勘違いと思い込みで彩られているのかもしれない。読後感の後味は、わたしは「ローズウォーターさん」よりも「ジェイルバード」のほうが好きだ。限りなく、ヴォネガットらしい。

2007年12月31日

ホーカス・ポーカス(Hocus Pocus)

ホーカス・ポーカス
カート・ヴォネガット 浅倉 久志
4150112274

ヴォネガット 1990年の作品。90年代に入ったヴォネガットは、もうおとぎ話を書けないほど、母国に対する怒りと悲しみが深くなってしまったようだ。これまでのヴォネガットには、どんな内容のものであれファンタジーがあった。偶然の産物があった。涙を誘うペーソスあふれる愛の対象があった。ところが、「ホーカス・ポーカス」にはそれがあまりない。登場人物はすべて架空だし、設定も奇想天外なのに、シリアスで、絵空事になっていない。どちらかといえば、その翌年書かれたエッセイ「死よりも悪い運命」や「国のない男」のテイストに近い。

ヴォネガットのエッセイを読むと思い出すのがマイケル・ムーアの映画だ。確かに面白いし、皮肉が利いている。痛快で、どこか悲しい。けれど、ムーアにしてもヴォネガットにしても、これらの作品は自国民のために発表しているのだ。アメリカ人による、アメリカ人のための、アメリカ人のエッセイであり、映画である。日本人であるわたしは、そこに少々居心地の悪さを感じる。これを壮大なたとえ話として、自分の置かれた境遇...日本の問題に置き換え、それらを眺めることはできる。けれども、やっぱりどこか違う気がする。

「ホーカス・ポーカス」が、ヴォネガットのエッセイに近いと思ったのは、ストレートすぎるほと、差別に対して訴えてくるからだ。これまでも彼が作品を通じて訴えたかったことが、フィクションというオブラートに包んでいては、もう自国民に伝わらないと思ったからかもしれない。彼が次回作の「タイムクエイク」を最後に、物語を綴るのをやめてしまったのもうなづける気がする。

ただし。この作品では、ラスト20ページくらいにヴォネガットらしいしみじみした味わいがようやくやってくる。具体的には、ヒロシ・マツモトの描写をもっと早い段階で掘り下げてほしかった。また、息子との対面が、この物語の中では一番よかった。

追記:2008年9月に復刊しました。


今年よかった本

おそらく一種の逃避だと思いますが、今年もよく本を読んだ。古い本から新しいものまで。いろいろと。そのなかで、特に印象的だったものをピックアップ。

・「砲台島」三咲 光郎
砲台島 (ハヤカワ・ミステリワールド)
戦時下をモチーフにした作品が多い作家さんで、実を言うと、結構突っ込みどころが多い。多いのだけど、クライマックスの壮大さには舌を巻く。凄い巧いと思う。あと引く作家さん。かなりツボです。いい編集さんと組んで、時代考証や、思想、言葉遣いを徹底しながら書いたらもっといいだろうなと思う。

・「犬は勘定に入れません」コニー・ウィリス
犬は勘定に入れません...あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎
長いんだけど、めちゃくちゃ面白かった!「ドゥームズデイ・ブック」といい、「犬勘定」といい、キャラクターがすごくいい。とにかく巧い。大森望さんの翻訳もすばらしい。女性コトバが洗練されている。

・「黒いトランク」鮎川哲也
黒いトランク (創元推理文庫)
クロフツの「樽」を髣髴とさせるのは、設定が似てるだけじゃないと思う。読み終わったあと、もう一度読み返したくなる。重さとドラマがあるなー、と。それにしても、かなり複雑!そのあたりも「樽」といい勝負。

・「デス博士の島その他の物語」ジーン・ウルフ
デス博士の島その他の物語 (未来の文学)
比類なき物語!深読み必須。「アメリカの七夜」は謎だらけ。ラストの「眼閃の奇蹟」で、気持ちが救われた感じがした。短編集なのにね。一冊を通じてものすごかった。巧くいえないなぁ。ああ、じれったい。

・「デッドアイ・ディック」カート・ヴォネガット
デッドアイ・ディック (ハヤカワ文庫SF)
今年はヴォネガット逝去のショックが大きくて、著書の大半を読み返したが、なかでも「デッド」は凄いと思った。調子がいい、構成がうまい、あっと驚くサプライズがそこかしこにある。やがてページの残りが少なくなり、物語の終わりに気がつくと読者たるわたしは、寂しい気持ちになる。

2008年1月 4日

スラップスティック(Slapstick)

スラップスティック―または、もう孤独じゃない (ハヤカワ文庫 SF 528)
カート・ヴォネガット 浅倉 久志
4150105286

副題は「または、もう孤独じゃない!」。ヴォネガット1976年の作品で、昨今のヴォネガット復刊ブームのラインナップから外されてしまった一作。ここでのテーマは拡大家族。そう、ヴォネガットが生涯テーマにした「拡大家族計画」だ。こんな重要な本が復刊されていないなんて! この本をはじめて知った人が図書館で読めますように。

「スラップスティック」は、設定も展開も登場人物も、なにもかもがハチャメチャで奇想天外。特に、主役のスウェイン医師と姉のイライザとの「お祭り騒ぎ」のくだりは爽快そのものだ。この爽快感がヴォネガットらしさなんだなぁ。

テーマ的としては、「猫のゆりかご」でヴォネガットが提唱したボコノン教をうんと推し進め、現実的にしたもののように感じた。人びとをカラースで分類した代わりに、「スラップスティック」ではミドルネームを政府が発行し、無数のいとこ兄弟姉妹を提案した。アイス・ナインで人類が瀕死のふちに立たされる代わりに、重力の激しい変動を用意した。SF的な要素が濃いながらも、「タイタンの妖女」のようなやりきれなさは感じなかったし、「猫のゆりかご」のように突き放した絶望感も感じなかった。ただ訪れるものを受け入れつつ、人々が変容していくことにも動じず、淡々と生きてゆく数少ない登場人物のありようは、ヴォネガット文学を貫く普遍的なテーマに則っている。この作品は、設定の奇想天外さにおいても、根底に流れるテーマの普遍性においても、ヴォネガットらしさがバランスよく含まれている。秀作。

なお、訳者あとがきでは、拡大家族のヒント、星座占いがなぜこうまでも受け入れられているかについてヴォネガットが語ったコトバが引用されていたが、この作品を理解するうえでとても大きな助けとなった。うーん、さすがだ。

追記:2008年9月に復刊しました。


2008年1月12日

タイムクエイク(Timequake)

タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)
カート ヴォネガット Kurt Vonnegut 浅倉 久志
4150114331

最後に執筆された小説。ヴォネガットのこれまでの小説たちの総括のような作品で、この本から読むと、おそらく意味がわからないのではないだろうか。ヴォネガットが、あらゆる場所で訴え続けてきたことが書かれている。デジャ・ブのように、その記述は現れて、軽やかに去ってゆく。あれ?これどこかで読まなかったでしょうか、その他いろいろ。

新しいテクノロジーへの警鐘は「プレイヤー・ピアノ」を思い起こさせ、拡大家族の必要性は「スラップスティック」や「死よりも悪い運命」の復活のようだ。オヘアの思い出は「スローターハウス5」とともに。そしてなにより、ずっと孤独だったキルゴア・トラウトが最後の最後で独りぼっちでなくなった! 作者の優しさを感じずにはいられない。

亡くなった人々への回想は甘く優しく、ともに生きている人には厳しい気がした。先妻ジェインとの関係が悪いままでなくて本当によかった。「ヴォネガット、大いに語る」や「さよならハッピー・バースデー」のときのヴォネガットは本当につらそうだったから。

それにしても、これはやっぱり最後の本なんだなぁと思った。グランドフィナーレもあったし。あんたは病気だったが、もう元気になって、これからやる仕事がある。なんという心強い言葉! アウフ・ヴィーターゼーン。

2008年1月14日

タイタンの妖女(The Sirens of Titan)

タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫 SF 262)
カート・ヴォネガット・ジュニア 浅倉 久志
4150102627

しまった! 「タイタン」と「母なる夜」のレビューを忘れていた! 「タイムクエイク」でヴォネガットの小説レビューは全部かなと思っていたら、うっかりしてました。ということで、まずは「タイタン」を。

前期ヴォネガットを語る上ではずすことのできない作品。世間的には、「猫のゆりかご」と人気を二分する作品だが、ヴォネガット一流の、読後のしみじみ感を満喫できる「タイタン」のほうがわたしはお気に入りだ。ヴォネガットと言えば、しっちゃかめっちゃかな話の展開だが、ここでのしっちゃかめっちゃか度合いは半端ない。地球を飛び出して、はるかかなたの星の世界へ飛ばされまくる人生も、そういうものだと受け入れるべきか。トラルファマドール星人、大活躍。パンクチュアルな意味において、カートは今、天国におります。

私自身、この長い物語は、ラスト3ページの"サロの贈り物"のためだけにあると思っている。ここを読むだけで、ほらまた鳥肌が立って、目頭が熱くなる。天国にいる誰かさんは、あんたのことが気に入ってるんじゃないかな云々は、いろいろな作品で使われている言葉だけれど、「タイタン」ではとても重く、やさしく、トーストみたいにあったかだ。まさに名作。また読もうかな...。(またかよ!)


母なる夜(Mother night)

母なる夜
カート・ヴォネガット 池澤 夏樹
4560070563


母なる夜 (ハヤカワ文庫SF)
カート,Jr. ヴォネガット 飛田 茂雄

母なる夜


「母なる夜」は白水Uブックス・池澤訳とハヤカワ文庫・飛田訳の2つが出版されていて、これについては甲乙つけがたい。残念なのは、後発であったハヤカワ版が入手困難になっていて、なかなか高値がついていること。池澤訳は現在も書店で平積みになっているので、「母なる夜」そのものが読めなくなったわけではないので、まだ救いがあるものの、ハヤカワ版には白水版にはないよさもあるので、とても残念に思う。

というのは、後発だったためもあると思うが、ハヤカワ版はちょっとしたオマケをつけている。それは、ヴォネガットによる「読者のみなさん」という序文が収録されている点。序文に書かれている言葉がすこぶるいい。機会がある方(あなたの街の図書館に、この本がありますように!!)は、序文だけでも目を通してほしい。復刊してもらいたい一冊。

肝心の内容は、ヴォネガットの小説の中で、最もシビアな作品と言えるが、読みやすいとも思う。自分自身がこの立場だったらどうするだろうと、ヴォネガットの作品では珍しく感情移入しながら読むことができる。「スローターハウス5」が産まれた後、フィクションの形をとりながらも、あくまでもリアリティをもったこの作品が世に出されたことは、作家にとって必要だったのかもしれない。

なお、「マザーナイト」のタイトルで映画化もされており、ラスト間際でヴォネガットもカメオ出演している。なかなか原作に忠実に作られた映画だった。(日本では未公開、ビデオのみ販売)

(追記:やっぱ「ハイ・ホー」より「ハイホー」のほうがしっくり来るなぁ...いや、どうでもいいですが)
(追記その2:2008年9月に飛田版復刊しました。)

2008年2月24日

ヴォネガット、大いに語る(Wampeters, Foma and Granfalloons)

ヴォネガット、大いに語る (ハヤカワ文庫版)
飛田 茂雄訳 カート・ヴォネガット著
4150501505

ヴォネガット、大いに語る (1984年) (サンリオ文庫)
飛田 茂雄 訳
B000J770FW


以前、友人に借りて読んだものの、もう一度読みたくなって、たまたま古本屋さんで発見し購入。運が良かった!(わたしが入手したのはサンリオ文庫版)

この本では、「スラップスティック」の構想が語られており、そして拡大家族の必要性がこれまたしつこいくらい説きに説かれている。彼の言っていることは、他の長編やエッセイやインタビューとなんら代わらない。彼は、言ってる事が全部同じ。何冊読んでも同じ。

しかし、ヴォネガットのエッセイのなかでも、この本と「死よりも悪い運命」は群を抜いて重い。内戦が続く現地への取材旅行がどちらにも含まれていて(「死よりも」はモザンビークの取材)、そのせいもあるのかもしれない。ビアフラのナイジェリアからの独立運動の失敗による、国民の危機的状況は、冗談でも言わなきゃやっていられない。といいながらも、もうすっかり笑う力すら残っていない。そんなヴォネガットが、そこにいる。生々しいのだ。人間くさいし、あがき、悩んでいる。

わたしはこの本を含む、残り3冊のエッセイの再販を、心から望む。かつて、エリオット・ローズウォーターは、人生について知るべきことは『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と言い、そしてこうつけ加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ!」。わたしたちは、「国のない男」だけじゃもう足りないんだ!

どうせつくなら、気分のいい嘘をつこうじゃないか。未来は暗く、生きることはつらい。それでも人生は続く。なあ、赤ちゃん。こんな地球にようこそ。でも、きっと人の親切が、君の心を明るく楽しいものにしてくれる。

アメリカ人のこの作家は、そんなたわごとを一所懸命書き続けてきたおじさんなんだ。こんな人がいたなんて、それはきっと素敵なことに違いない。わたしはそう信じている。

余談:
原題の「Wampeters, Foma and Granfalloons」は、「猫のゆりかご」にでてくるボコノン教用語。「ワンピーター」は「カラース」の中心となるもので、「カラース」は特別な理由もなく人生に関係してくる人々の集まりのこと。「フォーマ」は無害な非真実。ボコノン教の経典とか。そして「グランファルーン」は、 間違ったカラースで、本当はありもしないのに何らかの関係があると考えている人々のグループ。たとえば、会社組織とか。なんと辛らつな。

2008年9月 4日

追憶のハルマゲドン(Armageddon in Retrospect And Other New And Unpublished writings on War and Peace)

追憶のハルマゲドン
カート・ヴォネガット 浅倉 久志・訳
4152089474

ヴォネガット没後一周年を記念して出版された未発表短編集を中心に編まれた本。序文は長男のマーク・ヴォネガットによるもので、これがすこぶるよい文章で、ほんとに泣ける。身内だから書ける追悼文だと思った。ヴォネガットのすばらしさを再認識できた。

収録されている短編集の大半は、第二次世界大戦をモチーフにしたものである。ヴォネガットのエッセイで戦争について語られている本を読んでいたせいか、ちょっと身構えていたが、収録されている作品はユーモアにあふれ、爽やかさすら感じられた。人を描くことに力を注いだヴォネガットならではの着眼点だと思った。

中には、ヴォネガットにしては珍しくミステリタッチの作品がある。「サミー、おまえとおれだけだ」がそれで、これまで発表されたヴォネガットの小説の中でかなり珍しいタッチだと思う。言ってみれば倒叙法か。最初に結末を描くことを信条としたヴォネガットらしい。

唯一、戦争に関係のない作品が表題作であるが、これがどうして未発表だったかと驚いた。というのは、実を言うと、短編ではなかなかヴォネガットらしさを味わうことが難しいのだが、この短いお話の中にはそれがある。読後感はまさにヴォネガット。なぜこれを表題作にもってきたのか、判ったような気がする。

それから、これだけは言っておかなくては。やはりヴォネガットは浅倉久志訳でなくては。今回、つくづく思った。優しさとアイロニーが表裏一体になっているこの語り口こそ、わたしが知っているヴォネガットだから。

お帰りなさい、ヴォネガット。また会えて嬉しいかったです。ほんとうに、ありがとう。R.I.P.

2008年9月11日

死よりも悪い運命(Fates worse than death)

死よりも悪い運命 (ハヤカワ文庫 SF ウ 4-19)
カート・ヴォネガット 浅倉 久志・訳
4150116822

1991年に出版され、93年に邦訳・上製判として出版された幻の一冊がこのたび初の文庫化となった。カバーは原著の写真を和田誠氏の手でイラスト化されたもので、とても軽やかで好感度がアップしていると思う。また、上製版では割愛されていた「付録の扉のイラスト」が収録されているなど、細かな点でチューンナップが図られていて楽しい。

肝心の本編はヴォネガット節全開で、ところどころにジョークや軽口も見られ、とても読みやすい。本文中では、15,16章あたりが特に力が入っていると感じた。しかし、全体の内容が重いので、読みはじめればページを繰る手は軽快でも、一度本を閉じると次に開くのに少々のためらいを感じる。

たとえば、筆者が自殺を図ったくだりや、ナイジェリア訪問記がどうにもつらい。自殺云々のくだりは、その直前まで結構楽しい話題になって、重苦しい話題からやっと開放されたとほっとしていた読者は急転直下の展開にうろたえることになる。これには結構堪えた。また、ナイジェリア訪問については、彼の著書「スローターハウス5」でビリーが無感覚になる描写があるが、それを体現している、とでもいおうか。淡々としている故に恐ろしさが際立っている。リアルだ。

全体を通していえることは、アメリカ国民に向けて書かれたメッセージを外国人(日本人のわたし)が受け取ることの居心地の悪さのようなものがぬぐえない、の一点に尽きる。そこを意識した上で読む必要がある。まず価値観が違う。習慣も違う。そもそもヴォネガットのエッセイは全部そうなんだけど、いつものヴォネガット節ゆえに油断しないほうがいいかも、と思った。

とはいうものの、ドイツ系アメリカ人の老作家が16年前に発したこの警告は、21世紀の今なお有効である。耳障りが悪くとも、気持ちが重くなろうとも、そしてアメリカ人でなくとも、読まなければならない本であることには変わりがない。

2009年3月 2日

タイタンの妖女(The Sirens of Titan)

タイタンの妖女
カート・ヴォネガット・ジュニア / 浅倉久志:訳
4150117004

読書ブログにヴォネガットを書くことの出来る幸せ! もう作家は「パンクテュアルな意味において」生きていないし、新作を手にする可能性はほとんど残されていない。そんな中、「新訳」となってタイタンが帰ってきた! どのくらい「新訳」なんだろうと思ったが、実際は旧版のイメージを全く損なわず、チューンナップが随所にはかられている、といった感じだった。(ただし、わたしが所持している旧版がそもそも古く、その後に何度か改訂版も出ていると思う。なので、どこまでが新訳版として改まった箇所なのかは正確にはわからないです。)

何度目かになるタイタンは、やっぱり面白かった。いや、一番面白かった。実を言うと、わたしはタイタンがあまり好きではなかった。火星の描写がとても残酷でいやだったからだ。その残酷さは「未来世紀ブラジル」を思い起こさせる。新訳になって、残酷さが薄まることはもちろん無い。けれど、この作品を受け入れる「わたし」に変化があったのではないかと思う。

ヴォネガットが用意した、あの雪のラストの美しさはもう比類がない。「トーストみたいにあったかだ」を繰り返すコンスタントの結末、とても幸せだったと思う。幸せな夢が見れるようにと手を貸す存在がいることは、探し求めた親友に出会えない悲しみの埋め合わせとして、十分なほどの価値があると思う。考え得る限り壮絶で残酷な体験の後にやってきた時間は、穏やかで、どこまでも優しい。ヴォネガットを読む間のわたしはとても幸せだし、幸せだったし、これからも幸せだと思う。

2009年5月26日

[DVD]スローターハウス5(Slaughterhouse5)

スローターハウス5 [DVD]
ジョージ・ロイ・ヒル
B001P7BJFM

原作の大ファンなので、とても嬉しいソフト化だった。映像で再現されるエピソードの背景を、原作から脳内補完して観てしまうので、わたしはよい鑑賞者ではなかったと思う。が、「補完しないと理解できない」とも言えるのかもしれない。たとえばワイルド・ボブやハワード・W・キャンベル・ジュニアが登場するシーン、彼らがどういう人なのかがわかったのは原作を読んだ人だけだろうし、検眼医としてのビリーの描写がないので(診察のシーンとか)、彼が復員後何をしていた人かがわからない、などなど。また、字幕スーパーで観たのだが、役者たちの会話から推測しても、コトバをはしょりすぎの感があった。吹き替えで観た方が良かったかな。

この映画は、人生において「もしあのとき~~だったら」と後悔したり、過去を改変するのではなく、悲しいことやつらいこと、理不尽なことも含めて、全てを受け入れることを説く物語だと思う。この辺り、映画での表現はなかなか難しいものがあると思う。が、飛行機に乗ったときに、フライトを止めようとしたビリーの描写は、淡々と人生を受け止める彼の生き方において唯一、人間臭さがにじみ出た重要なシーンだと思った。

映像の美しさは息をのむ。そして、あのラストシーン、わたしは大好きです。

2009年12月27日

お日さま お月さま お星さま(Sun Moon Star)

お日さま お月さま お星さま
カート・ヴォネガット : 文 / アイヴァン・チャマイエフ : 画 / 浅倉 久志 : 訳
4336051623
 

ヴォネガットが唯一残した絵本で、クリスマスシーズンに合わせてなんと国書刊行会が発売した。さすが国書、造本に妥協無し。非常にリッチな仕様の大きな大きな絵本。文字ページは黒い背景。反対側のページの色がその黒に反射して、とても美しい。この美しさはこの判型だから堪能できると思う。小さなお子さんにもぜひ見て欲しい。美とはこういうことなんだろう。

ところで、ヴォネガットと言えば無神論者としてつとに有名(ただし、ヴォネガットは人が宗教を持つことは否定しない。彼の友人が、ずっと抱いていた信仰を戦争によって失ってしまったことを嘆いたこともあった)。そんな作家が描くクリスマス絵本は、造物主を取り巻くできごとが淡々と綴られている。この「起こった事柄に逆らわず流される」キャラクター描写が、いつものヴォネガットらしくていいなーと思った。浅倉久志氏の訳もヴォネガットらしさに満ちてたし。

2010年2月28日

さよならハッピー・バースデー(Happy Birthday, Wanda June)

さよならハッピー・バースディ
カート・ヴォネガット 浅倉 久志:訳
Happy Birthday, Wanda June

この本の前書きがすごく好きだ。1時間半くらいの上映時間の戯曲だろうか。ヴォネガット小説の持つ濃密な体験はそこにはないが、他の作家では決して書けないような価値観にあふれている。復刊を願っています。

2010年4月16日

Slaughterhouse-Five

Slaughterhouse-Five
Kurt Vonnegut
0440180295

何度目かの再読。改めてビリーとヴァレンシアの夫婦仲にじーんとする。こういう関係も一つの愛なんだなぁ。戦争を綴るのにヴォネガットは小さなコトバ、小さな出来事を繰り返した。身近に起こる出来事も、降りかかってきたできごとにも差違はない。(Kindleにて原著を読みました。)

2010年6月 5日

Breakfast of Champions

Breakfast of Champions: A Novel
Kurt Vonnegut
0385334206

狂気に満ちた一冊だと持った。ラストのトラウトとの対峙に至るまで、この頃のヴォネガットはかなり不安定だ。つくづくヴォネガットがこの執筆後に自殺しな いで良かったと思った。ここに書かれていることはそっくりそのまま現代日本への警鐘ととっても充分通じる。最もヘビーなヴォネガット作品。
 

2010年7月20日

Look at the Birdie: Unpublished Short Fiction

Look at the Birdie: Unpublished Short Fiction
Kurt Vonnegut
038534371X

うーん。ちょっと出来にばらつきがあるような。ヴォネガットを味わうには、やはり長篇の方がいいかも。とはいえ、いい短篇もあった。中でも「The Honor of a Newsboy」はラストがヴォネガットらしさが満ちてよかった。表題作「Look at the Birdie」は落語のオチのような印象。ラスト間際の「King and Queen of the Universe」にもほろり。

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