黒いトランク
鮎川哲也のデビュー作です。
デビュー作といっても、それまでも別のペンネームで
すでにデビューしていて、活字にもなっていましたが、
「万年新人だった」と本人が称する状況が続いていたそうです。
「黒いトランク」は、クロフツの「樽」の孫のような作品です。
書き始めのきっかけは、横溝正史の「蝶々殺人事件」(のあとがき)
からヒントを得た、とありました。
が、緻密な捜査や、ひとつひとつアリバイを崩してゆく手腕は
正史というよりもクロフツ。
親よりも祖父に似てしまった孫、といったところでしょうか。
ここで描かれる事件は、汐留駅に届いた黒いトランクが
異臭を放っていたらめ、中身を検めたところ、一人の男の
腐乱死体が入っていたことから端を発します。
死体をなにかに詰めて発送する…ああ、まさにクロフツの「樽」を、
そして正史の「蝶々殺人事件」を髣髴とさせるではありませんか!
ところで、この「黒いトランク」は、現在
光文社文庫版と創元文庫版の二種類がありますが、
前者は講談社の初刊版、後者は数多く存在する改稿版の最終的な形です。
わたしはそんな予備知識もなかったため、
どっちがいいだろうかと書店で手にして迷い、
口絵に生原稿の写真が載っていた光文社版を手にしました。
光文社版の巻末には、改稿についても言及がありました。
また、この作品が世に出た経緯を鮎川本人が書き綴った文章が
2つ載せてあり、理解の助けになりました。
そして、「トリック図解」これがよくできてます!
読み終わってから見ると、うおお~~~と目からウロコが。
こういう資料性の高さは、やはり光文社。楽しかったです。
内容に関する感想ですが、正直、ラストがちょっと物足りなかった。
こつこつアリバイを崩してゆく旅を、鬼貫と共に読者もしてるので
やはりラストにはカタルシスがほしいかも~と思いました。
それから、殺害の動機はともかく、ああまでややこしい
トランクのトリックをわざわざ仕込んだ犯人の心理が、
あとから取ってつけたような印象がしました。
それから、この作品にはアリバイ崩しだけではなく、
戦争や、弱いものへの暴力に対する(憎しみに近い)感情が印象的です。
あの時代の作家達…いえ、作家に限らないですね、人々の、
戦争に対する感情は、想像を絶するものがあるように感じました。
これは、江戸川乱歩の「探偵小説四十年」を読んでも、
そこかしこにちらほらと読み取ることができます。
乱歩の場合は、鮎川に比べるともっと淡々としていますが、
根底は同じように苦々しいものがあったのではないかと察しました。
…と、ここは戦争論を述べるブログではありませんので
本題に戻りますが、ここまで感想の文章を長々と書いているのは
この話がとてもとても面白かったからにほかなりません。
謎解きのヒントになるようなことは、ここでは触れないようにしたつもりです。
ぜひ、ご一読を! 素晴らしいです。
●初刊本の復刻
黒いトランク 鬼貫警部事件簿―鮎川哲也コレクション
鮎川 哲也
●最終版の復刻
黒いトランク
鮎川 哲也