呼び捨てか「さん」付けか

ど~~でもいいことなんだけど、有名人の名前を呼ぶときに、「さん」をつけるか呼び捨てか、について書かれたコラムを昔読んだことがある。いや、ホントど~~でもいいな。

「さん」付けにするか否かには、相手との距離感が影響していると書かれていて、「さん」付けで呼ぶのは、「相手との近しい距離」を表していることが多いらしい。うーん、それわかるなぁ。サッカーや野球などのスポーツ選手は圧倒的に呼び捨てだ。それは相手との間に距離が歴然とあるからこそなのだな。お笑い芸人が、町で子供たちに呼び捨てで呼ばれてむかっ腹を立てている逸話に違和感を感じていたのだけれど、そういうことなのだ。彼らはテレビの中の人で、憧れなのだ。憧れの存在が急に現れたら、そりゃ呼び捨てだろう。

でも、例外もある。「細野さん」と「所さん」など。このお二方は、面識もなければ、接点もないが、「さん」をつけて呼んでしまう。それは、そう呼ぶものとして固定しているからだろう。細野さんを細野とは呼びにくい。ユキヒロはユキヒロなのにね。不思議だ。細野さんもユキヒロも手の届かない遠い存在であることに違いはない。

ミュージシャンで身近な人に白井良明さんがいる。縁があって、ここ7,8年ほど面識があるわけだけれど、昔から憧れていたミュージシャンのお一人だ。初めてお会いしたときには「白井良明に会った!」ときゃぁきゃぁ言ったもんだ。しかし、今は呼び捨てなんかで絶対呼ばない。呼べない。「良明さん」だ。同じライダーズであっても、リーダーのことはフルネームで「鈴木慶一」と影で呼んでいる。当然、良明さんの前では「慶一さん」と呼んでいる。理由は簡単で、わたしはK1さんとは面識がないから。K1さんはCDの中の人であり、DVDの中の人なのだった。

それに似た感じで、最近お目通りの叶った(というより、勝手に声をかけてサインをもらっただけだが)翻訳界の巨匠:浅倉久志さんは、これまでは呼び捨てフルネームの「浅倉久志」あるいは「浅倉さん」だった。けれど、今ではトゴルでは「浅倉先生」と呼んでいる。NORIまでそう呼んでいる。ワールドコンのとき、お声をかけた際、自然に口から出た呼び方は「浅倉先生」だった。

浅倉先生を語る上で切り離せないのが伊藤典夫さんだが、わたしは当然のことながら伊藤さんとは面識がない。全くない。今後もおそらくない。苗字は同じなのに(うわー、関係ね~~)。けれど、「浅倉先生と伊藤さん」と呼ぶのはおかしい。文脈上ありえない。お一方が「先生」なら、もうお一方も「先生」だ。けど「伊藤先生」はなんか不自然だ。自分の中でしっくりこない。

ここまで書いて思ったが、最近は有名人に対して「さん」付けが結構自然になってるんだな。文章の途中から「さん」連発してるし。K1さんあたりからかなり変だ。文脈としてダメダメ。有名人との距離感が、だんだん変化しているのかもしれない。雲の上の人であってほしいと思うのだけれど。

などなどと取り留めのないまま、久しぶりの日記を終える。相変わらず元気でやってるのでご安心ください(誰に言ってるのだろうか)。