泣く

わたしはヴォネガットを読むと結構な確立で泣く。誰かが死んで悲しいとか、逆境に立たされてかわいそうだとか、そういうことではなくて、ヴォネガットの親切に触れたときに沁みる。それも、かなり深いところまで沁みとおる。ストーリーが思い出せなくてもずっと心に残る。20年来、ヴォネガットを飽くことなく読み続けられるのは、そういうところにあるのかなと思う。

ヴォネガットは誰にでも薦められるタイプの作家ではない。「ある出来事がおきて、誰かが巻き添えを食って、力をあわせて解決に導いてゆき、その過程において出来事の真相が明らかになる」といったお決まりの手順を全く踏んでいないからだ。最初からネタバレをしている。掴むまでに慣れを要すると思うし、嫌いな人は絶対すごく嫌いだろう。しかも、主張が一筋縄ではいかない。

たとえば、彼はいかなる戦争に対しても否定的な姿勢を断固貫いているし、広島や長崎の惨劇には非道であるというスタンスを崩さない。が、と同時に、広島や長崎に原子爆弾を落とした当事者の立場を尊重する姿勢も崩さない。この一見、矛盾ともとれる姿勢に戸惑う人は多いと思うが、わずかな違いには、しかしながら決定的に大きな差がある。戦争を、政治的な見解ではなく、市民の目線で描いているという点において。当事者になるということは、運命に翻弄され、巻き込まれることであり、政治的意図を持って動くこととはまた別の次元の話なのだ。

話は変わるが、わたしは昨日、ずっと幽霊部員状態だったSCBWIのイベントにようやく参加して、新しい友人を得た。彼らは、わたしにとってカラースであり、また拡大家族なのであろう。ヴォネガットの言葉が沁みる。その言葉は、やさしく、そして暖かい。以下に引用する。

 しかし、誕生のときにもらったこんな種類のおつむのおかげで、その乱雑さはさておいて、バーナードもわたしも人工的な拡大家族の一員となって、世界のどこへ行っても、自分の身内に会うことができる。
  バーナードは世界各地にいる科学者たちの兄弟、わたしは世界各地にいる作家たちの兄弟。
  わたしたちふたりはこれでずいぶん愉快な思いをし、心を慰められている。いいものだ。
  幸運であるともいえる。なぜなら、人間にはありったけの身内が必要だからだ---必ずしも愛でなくていい、ごくありふれた親切の贈り手や受け手が。(「スラップスティック」より)