ふたつの悲しみ  「声なき声のたより」43号(1967年11月20日発行)掲載

杉山 龍丸

 私たちは、第二次世界大戦から二十年たった今、直接被害のないベトナムの戦いを見て、私たちが失ったもの、その悲しみを、新たに考えることが、必要だと思います。
 これは、私が経験したことです。

 第二次大戦が終り、多くの日本の兵士が帰国してくる復員の事務についていた、ある暑い夏の日の出来事でした。
 私達は、毎日毎日訪ねてくる留守家族の人々に、貴方の息子さんは、御主人は亡くなった、死んだ、死んだ、死んだと伝える苦しい仕事をしていた。
 留守家族の多くの人は、ほとんどやせおとろえ、ボロに等しい服装が多かった。
 そこへ、ずんぐり肥った、立派な服装をした紳士が隣の友人のところへ来た。
 隣は、ニューギニヤ派遣の係りであった。
 その人は、
「ニューギニヤに行った、私の息子は?」と、名前を言って、たずねた。
 友人は、帳簿をめくって、
「貴方の息子さんは、ニューギニアのホーランジヤで戦死されておられます。」
 と答えた。
 その人は、その瞬間、眼をカッと開き口をピクッとふるわして、黙って立っていたが、くるっと向きをかえて帰って行かれた。

 人が死んだということは、いくら経験しても、又いくらくりかえしても、慣れるということはない。
 いうこともまた、そばで聞くことも自分自身の内部に恐怖が走るのものである。
 それは意識外の生理現象を起こす。
 友人は言った後、しばらくして、パタンと帳簿を閉じ、頭を抱えた。
 私は黙って、便所に立った。
 そして階段のところに来た時、さっきの人が、階段の曲り角の広場の隅のくらがりに、白いパナマ帽を顔に当てて壁板にもたれるように、たっていた。
 瞬間、私は気分が悪いのかと思い、声をかけようとして、足を一段階段に下した時、その人の肩は、ブル、ブル、ふるえ、足もとに、したたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。
 その水滴は、パナマ帽からあふれ、したたり落ちていた。
 肩のふるえは、声をあげたいのを必死にこらえているものであった。
 どれだけたったかわからないが、私はそっと、自分の部屋に引返した。

 次の日、久しぶりにほとんど留守家族が来ないので、やれやれとしているときふと気がつくと、私の机から頭だけ見えるくらいの少女が、チョコンと立って、私の顔をマヂ、マヂと見つめていた。
 私が姿勢を正して、なにかを問いかけようとすると、
「あたち、小学二年生なの。おとうちゃんは、フィリッピンに行ったの。おとうちゃんの名は、○○○○なの。いえには、おじいちゃんと、おばあちゃんがいるけど、たべものがわるいので、びょうきして、ねているの。
 それで、それで、わたしに、この手紙をもって、おとうちゃんのことをきいておいでというので、あたし、きたの。」
 顔中に汗をしたたらせて、一いきにこれだけいうと、大きく肩で息をした。
 私はだまって机の上に差し出した小さい手から葉書を見ると、復員局からの通知書があった。
 住所は、東京都の中野であった。
 私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、比島のルソンのバギオで、戦死になっていた。

「あなたのお父さんは――」
 といいかけて、私は少女の顔を見た。
 やせた、真黒な顔、伸びたオカッパの下に切れの長い眼を、一杯に開いて、私のくちびるをみつめていた。
 私は少女に答えねばならぬ、答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精一杯おさえて、どんな声で答えたかわからない。
「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです。」
 といって、声がつづかなくなった。
 瞬間少女は、一杯に開いた眼をさらにパッと開き、そして、わっと、べそをかきそうになった。
 涙が、眼一ぱいにあふれそうになるのを必死にこらえていた。
 それを見ている内に、私の眼に、涙があふれて、ほほをつたわりはじめた。
 私の方が声をあげて泣きたくなった。

 しかし、少女は、
「あたし、おじいちゃまからいわれて来たの。おとうちゃまが、戦死していたら、係のおじちゃまに、おとうちゃまの戦死したところと、戦死した、ぢょうきょう、ぢょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの。」
 私はだまって、うなづいて、紙を出して、書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にポタ、ポタ、涙が落ちて、書けなくなった。
 少女は、不思議そうに、私の顔を見つめていたのに困った。
 やっと、書き終って、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。
 涙一滴、落さず、一声も声をあげなかった。
 肩に手をやって、何かいおうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血がでるようにかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。

 私は、声を呑んで、しばらくして、
「おひとりで、帰れるの。」
 と聞いた。
 少女は、私の顔をみつめて、
「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いては、いけないって。
 おじいちゃまから、おばあちゃまから、電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。だから、ゆけるね、となんども、なんども、いわれたの」
 と、あらためて、じぶんにいいきかせるように、こっくりと、私にうなづいてみせた。
 私は、体中が熱くなってしまった。
 帰る途中で、私に話した。
「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、しんだの。だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって。」
 と、小さい手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。

 どうなるのであろうか、私は一体なんなのか、なにが出来るのか?
 戦争は、大きな、大きな、なにかを奪った。
 悲しみ以上のなにか、かけがえのないものを奪った。
 私たちは、この二つのことから、この悲しみから、なにかを考えるべきであろうか。
 私たちは何をなすべきであろうか。
 声なき声は、そこにあると思う。

声なき声のたより
60年安保闘争に始まるデモの連絡誌。この雑誌は安保闘争の無所有を記念して現在もここに発表されたものは自由に転載を許すきまりになっている。( 鶴見俊輔・著「夢野久作−迷宮の住人」あとがきより )

杉山龍丸
大正8年生まれ。父は作家の夢野久作。父の残した不動産遺産を投じ、インド緑地化に一人で立ち向かった人物。インドでは「グリーンファーザー」の名で知られている。昭和62年没。
詳細情報はコチラ >>> http://users.hoops.ne.jp/tanizoko/sugiyama_tatumaru.html